あさひの春夏秋冬

イエス様の福音を伝える日々のあれこれ

礼拝メッセージより 1月13日

詩編22篇1〜32節

タイトル「神が‘聖なる方‘であることの私たちにとっての幸い」

 

詩編22篇は神の不在感がもたらす苦悩について書いてある。

 

インドで働かれたマザーテレサは神から「私の光となりなさい」と言われて、

神に従った。

マザーは晩年に至るまで、神の不在感の中で苦悩したという。

聖者のようなマザーがなぜ、晩年に至るまで神の不在感に悩んだのか。

エスは十字架につけられるその前夜まで神の不在感の中での苦しみに祈った姿

そのままの姿がマザーの姿なのかもしれない。

 

22篇の4節で 苦悩の中であなたは聖なる方です と言う。

私たちの暗闇をどう理解したらよいのか。

神に似せて創られた私たちも聖なるものである。

私たちが神の不在に悩まされる時に、私たちが聖なるものである事を思いだす。

 

私たちの願いの延長上に神がいるのではない。

私たちが神の願いの延長上にいると気が付く。

ゆえに、神は私たちを助けてくださることは自明の事である。

そんな私たちは他社のために働くのだ。

 

マザーテレサが生涯、他者のために働いたようにである。

それは、神の願いの延長上に私たちはいるのだから。

礼拝メッセージより 1月6日

エフェソの信徒への手紙 4章1〜16

タイトル「キリストに向かって成長する」

キリストの身体なる教会がキリストによって与えられた賜物をつかって

教会を作り上げていく。

 

私たちにとって賜物をもって、キリストの身体なる教会を作り上げていくことが

一つの目的でなくてはならない。

人間の主義、考えをもって集まる時、その教会は消えていく。

 

キリストの身体なる教会には神の臨在が約束されている。

神の臨在が私たちを生かす。

私達に希望を与え続けてくださる。

 

私たちは、悩みや問題があった時、その事を正面に置くのでなく、

まず、それは横に置き、神を礼拝することを最初とする。

神への信頼により、神からの助けが与えられる。

神の恵み、神の知恵が与えらる。

それは神の臨在があるからである。

何を第一とするのか。

それは神を第一とするのだ。

 

12月16日 メサイア礼拝より

ヨナ書1の16より

タイトルは「神の声に背いた訳」

 

ヨナは何を見失ったのか。

神の御心を見失った。

神の思いとヨナの思いは違った。

 

ヨナは神からニネベに行き、悔い改めよと伝えるように言われた。

ニネベはアッシリアの都市であった。

アッシリアは悔い改めないと思ったから、しかし、ヨナは従わなかった。

 

その結果、ヨナが逃げようとして乗った船が暴風で沈没しそうになった。

神に祈るようにと周囲の人々からヨナは促されたのだ。

ヨナは神の御心に帰った。

 

アッシリアは後、滅ぼされることになるが、今ではない。

今は今であって、今の神の御心はニネベに悔い改めを求めることなのだ。

 

「今」という意味の大切さを実感した。

 

母の口癖

 母は働き者だった。

父の事業が上手く行かない時は、和裁の仕立ての腕一本で家を支えてくれた。

父がアルツハイマーになった時、母の口癖は「お父ちゃんは私の宝じゃ」だった。

父にその言葉は届いたかどうかわからないけど、いつもいつも言っていた

そして、父が亡くなった後、1週間ほど実家にいた。

その時、縁の下から猫の鳴き声がした。

私は縁の下にもぐり、子猫が鳴いているのを見つけ、抱き上げて連れ出した。

そして、その子猫は母の飼い猫になった。 

母の口癖は「この子は私の宝じゃ」に変わった。

 

私のこの頃の口癖は我が家の猫を「宝物よ」という言葉なのだ。

言うことが母に似てきたな思と思いつつ、それとともに、

猫を「宝物よ」といいつつ、娘達や孫達が宝物だと実感する。

 

母は父が言葉が全部わからない頃に「お父ちゃんは宝物」と言い始めた。

言葉がわからないともに暮らしている子猫を「宝物」と言っていた。

 

母も私も、わざわざに子供や孫の事を「宝物」とは言わない。

言わないが、母は子猫の事を「この子は宝物じゃ」という度に、

子供や孫への深い思いを実感していたのだろうと思う。

私がそうであるように。 

一人一人のキリスト者の役割

この頃よく、母教会の事を思いだしている。

来年四月に神学校に行くことが決まり、献身の思いを抱いた大学一年の頃の

教会生活に思いが至るせいでもあるのだろうか。

私に洗礼を授けてくださった牧師は長い年月、その教会で牧会をされた。

40年前に私の記憶では一度だけ、私の尊敬するある牧師がどのように献身に導かれ

今後、どのように働いていくであろう事を話してくださった。

私が献身の思いを持っていたから、牧師は話してくださったのかと思うが、

その折は、どうして、私に話してくださるのかわからなかった。

でも、今、その折より40年を過ぎて、神学校に行こうとする私は、牧師の言葉が

とてもよくわかる。

神はどのような役割をキリスト者一人一人に与えられるかはわからない。

自分が思う理想的な奉仕の仕方もあるし、世界に出ていく役割を担う方もいる。

しかし、神は人が思う思いでなく、神の手によって、導かれて働きが与えられる。

その事が今、よくわかるのだった。

礼拝メッセージより 詩篇21章1〜14

タイトルは「王の帰還〜天国への凱旋」

21編はダビデがキリストの天国への凱旋の歌として歌っている。

 

エスは私たちの王になられた。

私たちも天国に凱旋する。

 

罪と死に打ち勝ったイエス

信仰の勝利者として凱旋する私たち。

そして、教会において、キリストにある交わりは私たちの力となる。

 

今日の雑感

友人が「みんなの手話」というNHKテキストをくれた。

手話を習いたいという私の気持ちを聞いてのプレゼントだった。

12月30日からのテキストだ。

ビデオに撮って勉強しよう。

 

クリスチャンが折に触れての人前で語る証について話し合った。

友人が証をした経験から、もっと救われた折の聖書の個所や

その折の牧師のどんな言葉に触れ決心したかを語ればよかったのではないか

と思うと言っていた。

私は、それも大事だが、聴く人は証をしている人がどのようなバックボーンを持ち

どんな風にキリストに出会ったのかを知りたいと思っているのではないか

と思うと言った。

救いの経験を語っているのだから、救いの証であることは明白なのだから

聴く人は語る人がどんな人かにフォーカスしているのではないかと思ったのだ。

 

そうだね、聖書の解き明かしは牧師がするんだものね。

と言う結論に至ったような感じである。