あさひの春夏秋冬

イエス様の福音を伝える日々のあれこれ

祈り

詩編にはダビデの心からの素直な心情を神に祈っている歌で満ちている。

ダビデのその赤裸々な心情を神様に祈るというその姿が不思議な気がしていた。

神様はすべてをご存じですべてに最善をなしてくださるという思いが基本にあるから

なぜ、ダビデはその折々の心情を熱心に祈るのかという思いがあったのだ。

 

しかし、私は今、心情を切々と祈ることを知った。

四月からの勉強と仕事を両立させようとすると、体力と気力が果たして

今の私に大丈夫だろうかと思った。

私にとって、この勉強と仕事は将来の私の働きに多くの学びを与えてくれることを

実感している。

だから、両方をやり遂げたい。

しかし、私の体力では無理ですと素直に祈った。

どうしてよいかわからなかったのだ。

でも、その問題は解決した。

素直に祈ることができたことで、無理な部分を相談することができたのだ。

 

学生時代に召命を受けてそのまま、卒業後神学校へ行っていたならば、

大学の卒業までの数年間は教会の奉仕の数々の恵みや学び、

KGKでの奉仕や学びが輝くほどの心の財産になったかもしれなかった。

しかし、輝く場より、他の場所を選んでしまった。

神様は逃げるすべのない年齢になった私をとらえてくださった。

今、やっと、心情を切に祈ることを学べたと思った。

 

礼拝メッセージより 3月10日

詩編25篇1節~22節

タイトルは信仰とは「霊の賜物」か「感情の賜物」か

 

信仰とは、自分自身と主なる神との関係を知ることが信仰である。

この25篇でダビデは主なる神との関係を歌っている。

ダビデは神に何事も相談する。

あるがままの感情でダビデは神と話す。

ダビデはどのような願いでも神に話すことができる。

 

神は私たちを知っていてくださり、私たちは神を知っている。

相互的に知っているのだ。

 

神を信実に信頼する思い、それが確固たる平安になる。

ベーシックトラストとはそういう事なのだ。

 

エスはすべてをご存じである。

主にあって信頼して生きる。

これがベーシックトラストを与えられた人の生き方である。

礼拝メッセージより 3月3日

主イエスの十字架から始まる人生

詩編24編1節~10節

 

エスに期待した人々の期待をイエスは裏切った。

期待した人々はイエスが自分たちの希望を叶えてくれると思ったのだ。

しかし、イエスはメシアなのだ。

エスキリストは私たちの希望を実現するのではなくて

神の思いを実現するのだ。

 

メシアは神の御心に添って生きた。

私たちはイエスの十字架から私たちの生きることは始まる。

 

死ぬことは生きること。

別れることは出会うこと。

失うことは得ることなのだ。

 

私たちはこの世の価値観では生きられない。

エスは逆さまの価値観なのだ。

中途半端では生きられないのだ。

胡蝶蘭が咲いた

 

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一年前くらいに頂いた、高さ15センチにも満たない胡蝶蘭だ。

お花が咲き終えて、そのまま、お水だけを上げて一年が過ぎた。

陶器の器に入った緑の葉っぱは一年中生き生きとした色を見せてくれた。

余分な水を排出する穴のない小さな陶器に入っているので、乾燥したら

お水をたっぷり上げて、そして、器を反対にしてしっかりとお水を逃がした。

そんな一年が過ぎて、小さなつぼみが5つできた。

咲くだろうかと思いつつ、つぼみがほころんだ。

二つ今、満開に咲いている。

こんなに小さな命。大事な大事な命。美しく咲いてくれている事が嬉しい。

礼拝メッセージより 2月17日

ヨナ書3章1節~12節

すべてのことには理由がある「神は思いとどまられた」

 

預言者は神が言われる通りに語る。

神からの言葉を預かっているのだ。

ヨナは自分の予言でニネベの人々が悔い改めることを恐れた。

それゆえ、逃げ、船に乗り、暴風雨に合い、魚の腹の中で3日間を過ごすことになった。

神は預言者ヨナが語るべき言葉を語るように逃げるヨナを引き戻してくださった。

 

命の言葉はニネベの人々に届いた。

王は真っ先に悔い改めをした。

悔い改めに導かれたニネベを主は助けられた。

 

高田郁 銀二貫 みをつくし料理帖

銀二貫を読み始めて久しぶりに本を読んで感動という感情を得た。

そして、みをつくし料理帖は10巻の大作だったが、読み始めたら

読み終えるまで二人の女性の行く末が気になり、数日で読み終えてしまった。

どうして、こんなに感動するのだろうと思った。

信実な人の心願が努力の末に叶う。

良い本だった。

メモをした一文がある。

「めでたやな めでたやな 店が再興 娘を身請け、家を再興 娘を身請け」

「打ちまぁーしょ もひとつせぇ 祝うて三度」

礼拝メッセージより 2月10日

ヨハネ10章11~15節

タイトルは「私はイエスの羊」

 

私はイエスの羊なのか?

何を根拠にそう言えるのか?

その問いへの私の答えは「私はイエスを知っている」だ。

エスを知っているから、私は安心していられる。

エスの愛は敵をも愛する愛である。

人間の愛は自己愛の延長上にある。

エスの愛は自分を捨てた愛である。

羊であるならば、イエスはどこまでも羊を追いかけ、導いて下さる。

エスのように私を愛してくださる人はいないのだ。

エスは自分の命にかえて、恐れを打ち消す愛を下さる。