銀二貫を読み始めて久しぶりに本を読んで感動という感情を得た。
そして、みをつくし料理帖は10巻の大作だったが、読み始めたら
読み終えるまで二人の女性の行く末が気になり、数日で読み終えてしまった。
どうして、こんなに感動するのだろうと思った。
信実な人の心願が努力の末に叶う。
良い本だった。
メモをした一文がある。
「めでたやな めでたやな 店が再興 娘を身請け、家を再興 娘を身請け」
「打ちまぁーしょ もひとつせぇ 祝うて三度」
銀二貫を読み始めて久しぶりに本を読んで感動という感情を得た。
そして、みをつくし料理帖は10巻の大作だったが、読み始めたら
読み終えるまで二人の女性の行く末が気になり、数日で読み終えてしまった。
どうして、こんなに感動するのだろうと思った。
信実な人の心願が努力の末に叶う。
良い本だった。
メモをした一文がある。
「めでたやな めでたやな 店が再興 娘を身請け、家を再興 娘を身請け」
「打ちまぁーしょ もひとつせぇ 祝うて三度」
大学一年の春休みに召命を受けて、あの春休みは希望に満ちていたことを思いだす。
そして、40年以上の年月がたち、再び、あの折と同じ希望に満ちた春がやってきた。
あの春は、まだ大学一年生だったから、卒業までに三年間があった。
その間、休みごとに教会で奉仕をし、神学校の入学に備えましょうと牧師と話していた。
ずいぶん昔の話になってしまった。
今年の四月の神学校入学を前に牧師に神学校入学の推薦状をお願いした。
神学校入学が現実になってきたことを実感する。
長い時間がかかった。
それが私に必要な道のりだったのだと思う。
神様は一人一人に必要な道のりを用意してくださる。
不要ではないかと思う道のりも後から思うと、それが大事な経験だったと思うことがある。
神様の準備は万全なのだと思うのだ。
私は、書家を目指していたが、書家になるためには
日々の鍛錬に加え、大きな展覧会に毎回出し続けて、
自分の文字を鍛えなければならない。
書道には、練習する時間も必要だし、紙も墨も筆も良いものを用意したい。
今の私には、一反数万円というような紙も一本数万円という筆も用意できない。
経済的にも無理を感じ、書家としての夢は封印した。
それから、2年たった。
牧師から書道教室の話を頂いた。
書家を目指していた私は、大きな展覧会で賞を得る事や、
同人展での大作を仕上げることのみを思っていたのだが、
書道教室は頭の中になかった。
もう私に書を書くチャンスはないと思っていたが、こんな機会を与えていただいた。
今、改めて、楷書の基本の稽古をしている。
基本となる臨書として、唐の時代の欧陽詢(おうようじゅん)の「九成宮醴泉銘」と
褚遂良(ちょすいりょう)の「雁塔聖教序」を毎日書いている。
書き始めると止まらない。
私はやはり、書道が好きなのだとあらためて思った。
今は、賞を取ることを目指しての練習ではなく、好きだから書くという
そんな形になった。
そして、それが神様のお役にたつならば、どんなにうれしいことだろう。
ヨナ書2章より
タイトル「すべてのことには理由がある ”主は明確に任命する” 」
ヨナは主の命に従わず、自分の選び取った方向に行った。
それに誤りがあった時、神は大きな魚を用意された。
大きな魚の腹の中で、ヨナは神に祈った。
神はヨナの祈りを聞いて下さった。
ヨナは大海原に投げられた時、神に捨てられたと思ったのではないか。
ヨナは明確な神の導きがあるにも関わらず、自分が行きたいところに行こうとした。
そんなヨナを神は見捨てなかったのだ。