あさひの春夏秋冬

イエス様の福音を伝える日々のあれこれ

高田郁 銀二貫 みをつくし料理帖

銀二貫を読み始めて久しぶりに本を読んで感動という感情を得た。

そして、みをつくし料理帖は10巻の大作だったが、読み始めたら

読み終えるまで二人の女性の行く末が気になり、数日で読み終えてしまった。

どうして、こんなに感動するのだろうと思った。

信実な人の心願が努力の末に叶う。

良い本だった。

メモをした一文がある。

「めでたやな めでたやな 店が再興 娘を身請け、家を再興 娘を身請け」

「打ちまぁーしょ もひとつせぇ 祝うて三度」

礼拝メッセージより 2月10日

ヨハネ10章11~15節

タイトルは「私はイエスの羊」

 

私はイエスの羊なのか?

何を根拠にそう言えるのか?

その問いへの私の答えは「私はイエスを知っている」だ。

エスを知っているから、私は安心していられる。

エスの愛は敵をも愛する愛である。

人間の愛は自己愛の延長上にある。

エスの愛は自分を捨てた愛である。

羊であるならば、イエスはどこまでも羊を追いかけ、導いて下さる。

エスのように私を愛してくださる人はいないのだ。

エスは自分の命にかえて、恐れを打ち消す愛を下さる。

 

牧師の推薦状

大学一年の春休みに召命を受けて、あの春休みは希望に満ちていたことを思いだす。

そして、40年以上の年月がたち、再び、あの折と同じ希望に満ちた春がやってきた。

 

あの春は、まだ大学一年生だったから、卒業までに三年間があった。

その間、休みごとに教会で奉仕をし、神学校の入学に備えましょうと牧師と話していた。

ずいぶん昔の話になってしまった。

 

今年の四月の神学校入学を前に牧師に神学校入学の推薦状をお願いした。

神学校入学が現実になってきたことを実感する。

長い時間がかかった。

それが私に必要な道のりだったのだと思う。

 

神様は一人一人に必要な道のりを用意してくださる。

不要ではないかと思う道のりも後から思うと、それが大事な経験だったと思うことがある。

神様の準備は万全なのだと思うのだ。

礼拝メッセージ 2月3日

詩編 23章1〜6

タイトルは「主は私の羊飼い、私は主のもの」

 

羊は臆病で驚くとパニックに陥り、自分の居場所がわからなくなりおろおろする。

そんな性質の羊をわかっていて、羊飼いは羊を守る。

羊は声を聴き分けることができる。

だから、羊飼いの声を聴くと安心する。

 

父なる神はどういうお方かがこの個所を読むとわかる。

羊飼いは羊を追う。

同様に神は常に私たちを追ってくださる。

 

ダビデは何度も何度も主から離れた。

しかし、何度も何度も主は連れ戻してくださった。

だから、主は私たちを主のもとに立ち返らせてくださるのだ。

私たちは神に知られている。

主の家に帰り、私たちは生涯そこにとどまるのである。

礼拝メッセージ 1月27日

詩編22篇1節~31節

タイトルは「あなたは、私たちの神、私たちの賛美です」

 

22篇はダビデの苦悩を歌ったものである。

そして、それはイエスの苦悩と重なる部分の多いダビデの歌である。

 

賛美は人間の苦悩であり、

その賛美に導くのは神である。

 

人間の苦悩の中に神はおられる。

苦悩に会えば会うほど、神を賛美する。

そして、苦悩を賛美する私たちの賛美に神は必ず答えられる。

私が賛美しているのは、私の神なのですから。

信実によって賛美する。

 

神は私たちを見捨てない。

必ず顧みてくださるのです。

書道

私は、書家を目指していたが、書家になるためには

日々の鍛錬に加え、大きな展覧会に毎回出し続けて、

自分の文字を鍛えなければならない。

書道には、練習する時間も必要だし、紙も墨も筆も良いものを用意したい。

今の私には、一反数万円というような紙も一本数万円という筆も用意できない。

経済的にも無理を感じ、書家としての夢は封印した。

それから、2年たった。

 

牧師から書道教室の話を頂いた。

書家を目指していた私は、大きな展覧会で賞を得る事や、

同人展での大作を仕上げることのみを思っていたのだが、

道教室は頭の中になかった。

 

もう私に書を書くチャンスはないと思っていたが、こんな機会を与えていただいた。

今、改めて、楷書の基本の稽古をしている。

基本となる臨書として、唐の時代の欧陽詢(おうようじゅん)の「九成宮醴泉銘」と

褚遂良(ちょすいりょう)の「雁塔聖教序」を毎日書いている。

書き始めると止まらない。

私はやはり、書道が好きなのだとあらためて思った。

今は、賞を取ることを目指しての練習ではなく、好きだから書くという

そんな形になった。

そして、それが神様のお役にたつならば、どんなにうれしいことだろう。

礼拝メッセージより 1月20日

ヨナ書2章より

タイトル「すべてのことには理由がある ”主は明確に任命する” 」

 

ヨナは主の命に従わず、自分の選び取った方向に行った。

それに誤りがあった時、神は大きな魚を用意された。

大きな魚の腹の中で、ヨナは神に祈った。

神はヨナの祈りを聞いて下さった。

 

ヨナは大海原に投げられた時、神に捨てられたと思ったのではないか。

ヨナは明確な神の導きがあるにも関わらず、自分が行きたいところに行こうとした。

そんなヨナを神は見捨てなかったのだ。